訂正履歴
・詩186(第6章 賢い人)と詩181(第7章 真人)を加える。(180605)
・詩136[296]を第10章 暴力より第5章 愚かな人 詩番号69の後へ移動 (181005)・詩143+144[299]を第10章 暴力より第6章 賢い人 の最後に移動 (181005)
()は中村元氏の詩番号、 [ ]は残した詩のシリアル番号
第5章 愚かな人、第6章 賢い人、第7章 真人
書換え詩一覧
第5章 愚かな人
(60)[51]
眠れない人には夜は長く、疲れた人には一里の道は遠い。
正しい真理を知らない愚かな者どもには、生死の道のりは長い。
(61)[52]
旅に出て、もしも自分よりもすぐれた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。
愚かな者を道伴(づ)れにしてはならぬ。
(62)[53]
「わたしたちには子がある。わたしには財がある。」と思って愚かな者は悩む。
しかしすでに自己が自分のものではない。 ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。
(63)[54]
もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。
愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。
(64)[55]
愚かな者は生涯賢者に仕えても、真理を知ることが無い。匙が汁の味を知ることができないように。
(65)[56]
聡明な人は瞬時(またたき)のあいだ賢者に仕えても、ただちに真理を知る。_舌が汁の味をただちに知るように。
(66)[57]
あさはかな愚人どもは、自己に対して仇敵(かたき)に対するようにふるまう。悪い行いをして、苦い果実(このみ)をむすぶ。
(67)[58]
もしも或る行為をした後に、それを後悔して、顔に涙を流して泣きながら、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善くない。
(68)[59]
もしも或る行為をしたのちに、それを後悔しないで、嬉しく喜んで、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善い。
(69)[60]
愚かな者は、悪いことを行っても、その報いの現れないあいだは、それを蜜のように思いなす。しかし、その罪の報いの現れたときには、苦悩を受ける。
(136)[296] 第10章 暴力より移動より第5章 愚かな人 詩番号69の後に移動
愚かな者は、悪い行いをしておきながら、気がつかない。しかし浅はかな愚者は自分自身のしたことによって悩まされる。
(70)[61]
愚かなものは、真理をわきまえた人の功徳と同じように、断食行により功徳が得られると考える。
しかし、愚者の行う断食行に功徳はない。
(71)[62]
悪事をしても、その業は、しぼり立ての牛乳のように、すぐに固まることはない。(徐々に固まって熟する)その業は、灰に覆われた火のように、(徐々に)燃えて悩ましながら、愚者につきまとう。
(72)[63]
愚かな者に念慮(おもい)が生じても、ついにかれには不利なことになってしまう。その念慮は彼の好運(しあわせ)を滅ぼし、かれの頭を打ち砕く。
(73)[64]
愚かな者は、実にそぐわぬ虚しい尊敬を得ようと願うであろう。修行僧らのあいだでは上位を得ようとし、僧房にあっては権勢を得ようとし、他人の家に行っては供養を得ようと願うであろう。
(74)[65]
「これは、わたしのしたことである。在家の人々も出家した修行者たちも、ともにこのことを知れよ。およそなすべきこととなすべからざることとについては、私の意に従え」_愚かな者はこのように思う。こうして欲求と高慢(たかぶり)とがたかまる。
(75)[66]
一つは利得に達する道であり、他の一つは安らぎにいたる道である。ブッダの弟子である修行僧はこのことわりを知って、栄誉を喜ぶな。孤独の境地に励め。
第6章 賢い人
(76)[67]
(おのが)罪過(つみとが)を指し示し過ちを告げてくれる聡明な人に会ったならば、その賢い人につき従え_隠してある財宝のありかを告げてくれる人につき従うように。そのような人につき従うならば、善いことがあり、悪いことは無い。
(77)[68]
賢い人は善人に愛せられ、悪人からは疎まれる。
(78)[69]
悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。善い友と交われ。尊い人と交われ。
(79)[70]
真理を喜ぶ人は、心きよらかに澄んで、安らかに臥す。
賢い人は、聖者(真人やブッダ)の説きたまうた真理を、常に楽しめる。
(80)[71]
水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め、大工は木材を矯める様に、賢者は自己を整えよ。
(81)[72]
一つの岩の塊りが風に揺るがないように、賢者は非難と賞賛とに動じてはならない。
(82)[73]
清らかな、澄んだ、深い、静かな湖のように、賢者は真理を聞いて、こころ清らかとなる。
(83)[74]
高尚な人々は、どこにいても、執着すること無く、快楽を欲してしゃべることも無い。しかるに、賢者は、楽しいことに遭(あ)っても、動じてはならない。
(84)[75]
自分のためにも、他人のためにも、子を望んではならぬ。財をも国をも望んではならぬ。
邪なしかたによって自己の繁栄を願うてはならぬ。(道にかなった)行いあり、明かな知慧があり、真理にしたがっておれ。
(85)[76]
人々は多いが、安らぎに達する人々は少ない。他の(多くの)人々は輪廻転生をさまよっている。
(86)[77]
真理が正しく説かれたときに、真理にしたがう人々は、渡りがたい輪廻転生を超えて、安らぎにいたるであろう。
(87)[78]
賢者は、悪いことがらを捨てて、善いことがらを行え。楽しみ難いことではあるが、孤独(ひとりい)のうちにも、喜びを求めよ。
(186)[79] 第14章 ブッダより移動
たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。「快楽の味は短くて苦痛である」と知るのが賢い人である。
(88)[80]
賢者は欲楽を捨てて、無一物となろうとも、心の汚れを去って、おのれを浄めよ。
(89)[81]
覚りのよすがに心を正しくおさめ、執着なく貪りを捨てるのを喜び、煩悩を滅ぼし尽くして輝けば、現世において全く束縛から解きほごされる。
(143, 144)[299] 第10章 暴力より移動(第6章 賢い人 の最後に移動)
自ら恥じて自己を制し、良い馬が鞭を気にかけないように、世の非難を気にかけない人が、この世に誰か居るだろうか?
賢い人よ、鞭をあてられた良い馬のように勢いよく努め励めよ。
正しい信仰・戒しめ、はげみ、精神統一や禅定により思念をこらし、真理を確かに知り、この少なからぬ苦しみを除けよ。そして、知慧と行いを完成させよ。
第7章 真人
(90)[82]
すでに(人生の)旅路を終え、憂いをはなれ、あらゆることがらにくつろいで、あらゆる束縛の絆をのがれた人には、悩みは存在しない。
(91)[83]
心をとどめている人々は努めはげむ。かれらは執著を遠ざける。彼らは、あの執著、この執著を捨てる。
(92)+(93)[84]
財を蓄えることなく、食べ物についてその本性を知り、情欲・迷妄・怒りから離れ空を体現し、自らの願への執着をなくし無相を体現する。
無相を体現した人は、汚れが消え失せ、彼の生活の道は、凡夫のうかがい知れないものとなる。
(94)[85]
御者が馬をよく馴らしたように、おのが感官を静め、高ぶりをすて、汚れのなくなった_このような境地にある人を神々でさえも羨む。
(181)[86]
正しいさとりを開き、念いに耽り、瞑想に専中している心ある人々は世間から離れた静けさを楽しむ。神々でさえもかれを羨む。
(95)[87]
大地のように慎み深く、整った門のように分別を保ち、汚れた泥がない深い湖のように清らかな、そのような境地にある人には、もはや生死の世は絶たれている。
(96)[88]
無相の体現によって解脱して、やすらいに帰した人_そのような人の心は静かである。ことばも静かである。行いも静かである。
(97)[89]
作られたもの_既存の信仰や神を軽信することなく、作られざるもの_法を知り、生死の絆が絶たれ、善悪の計らい、もろもろの欲求から離れた人、彼こそ実に最上の人、真人である。
(99)[90]
真人は人のいない荒れ地でも楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛著なき真人は楽しむであろう。かれらは快楽を求めないからである。
(98)[91]
村にせよ、荒れ地にせよ、低地にせよ、平地にせよ、真人の住む土地は楽しい。